サッカー強豪校での体罰のニュースを見て考える。体罰は、即効性はあるのだろう。強烈にネガティブな感情を与えることで、「戦うか逃げるか反応」が起こり、その状況から「逃げるために」必死で動く。動かすことに成功した指導者は、指導者にとって「良い反応が起こった」と学習し、繰り返すようになる。
強いチームでこういうことが起こると、体罰を受けた方も、「このやり方で勝っているから正しいことなのでは」と思うようになるのだろう。体罰は連鎖すると言われるのも納得できる。
自分はなぜ体罰や叱るということに拒否感があるのか。『好きなことが怖くなる』で書いたように、高校時代の環境は、ニュースになっている学校と共通する部分も多かったように感じる。幸いにも中学、大学の時の方が、高校時代より「成長できた」と実感する経験を積めたからだと思う。
中学時代は、当時良くあった「1年生は球拾いと走り込み」で始まった。サッカーをやりたいと思って入った部活だったのでがっかりした僕たち1年生は練習をボイコット、1年生だけで勝手に集まり自分たちで練習をする。その年に行われた1年生大会では県大会を制し、結局球拾いもほとんどしないまま、何人も3年生の試合に出るようになった。
大学時代は、サッカーに力を入れている学校では無かったので、監督は試合の時にしか来ない。練習は自分たちで考える。高校生の時のように、監督の期待に応えなければ怒鳴られるのではなく、試合に勝つか負けるか、良いプレーができるかは自分たちがやってきたことの「結果」として返ってきた。大学時代もサッカー部の歴史で1番と言われる結果を残せた。
中学生、大学生の時は、自分たちで考え行動し、それに対して試合の結果や、プレーの上達など自分の方に矢印が向いているフィードバックがあった。高校時代は監督からどう思われるかという監督への矢印中心のフィードバックで動いてしまったのだろう。どちらが成長につながるかといえば、探索し、試行錯誤する前者だ。前者の良い経験が、高校時代の結果を上回ったから「体罰・叱る」が連鎖しなかったのだと思う。科学的にも、脳の反応から「体罰や叱ることは、成長にはつながらない」ということを最近見聞きするようになり、大きく間違っていないのかなと感じている。子どもたちをどう動かすかではなく、どうすれば成長していけるかを常に考えていきたい。